昭和四十七年六月十五日 朝の御理解
X御理解 第六十五節 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいの           が、よい家相じゃ。よい日柄というのは、空に雲のない、ほ           んぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いか           に暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は           不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日           に良い悪いはないと思え。」               本当な事を実に淡々と、さらさらと言うてのけておられるという感じですねえ。ところがあまりに淡々とさらさらと教えておられますから、それでもそんな訳にはいかんというのが、金光様の御信心頂いておっても、そういう事になるのじゃないでしょうかねえ。
 もう一番はじめから、おっしゃっておられる。日柄方位は見るにおよばんと、もうやさしゅう、やさしゅう教えておられる訳ですよねえ。
 まあ、自分に都合のよい日が吉い日柄であるとか、もう使い勝手のよいのが吉い家相ぞと。もうそんなわずらわしい事言うたり思うたりする事がいけないぞと。
 もう、お天とうさまが照ってごさる時に悪い日はないと思えというふうにですねえ もう、本当な事を淡々として教えておられる。ところがこちらは、それが淡々として受けられないところに、人間のいわゆる業というものう感じますですねえ。それでもやはり金光様の御信心をさせて頂けば、そこんところをスッキリと頂かせて頂かなければなりません。スッキリと頂く為にです、いわゆる信心の稽古をさせて貰う。これはね、日柄方位の事ではありません。日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思えという事は、もう一切全ての事柄、いうなら天地宇宙間の中にです、例えば起きてくる事ですら、もう全てが、困ったとか難儀とかという事は、実はないのだと。という事にまで、この御教えは進展していけれる御教えだと思います。
 私共がね、実は、信心しなくても同じ事なんですけどね、とりわけお道の信心させて頂く者の上にはね、決して信心させて頂きよって、金光大神の取次を頂いて、天地の親神様の御恩徳の中にある事をわからせてもろうていきさえすればね、もう、決して吉い日もなからねば凶い日もない。その為に日柄も方位も見る事はいらん。もう何というですかねえ、自由自在なおかげの世界にね、住む事が出来るんだと。
 お互いがおかげは最近頂いておるように、自然と偶然が一致するような、もう本当に素晴らしいタイミング、何という素晴らしいタンミングだろうかという中に、お互いがおかげ頂きたいと願うのですから、そういうおかげを頂きたいと願うならば、どうしてもここのところをですね、全ての事を吉とか凶とかというのじゃない。全てが御神意、全てが御神愛、全てが私に下さるもの、それこそ下さるものは夏もお小袖である。今頃こげなもんはいらんという事じゃない。もうそれこそ、下さるものは夏もお小袖とうして頂くというところにお道の信心がある。
 だから説明をするとそれだけの事ですからね、そんなら私も淡々として、こうして皆さんに聞いて頂いておる訳です。けれども、どっこい仲々そう簡単にいかないものなんですよねえ。
 そこで私共がいつもね、間違いのない焦点というものを知っておき、わかっておいてそこのところに願いを置いて、信心を進めていき、信心生活を進めていかなければならない。でないと、間違いという事になります。
 ですから、焦点はどこに置くかというと、今申します神様のお働きの中に、困ったとか、恐いとか間違いのあろうはずはないのだと、そこを頭にひとつようく入れとかにゃいかん。それでもね、やはり痛い事は痛うございますと、それでもやはり困った事は困った事に感じます。凡夫でございますから相わかりませずと。
 やはりここにもありますように、自分に都合のよい事は有難いのですけれども、自分に都合の悪い事は、やっぱり困りますと、こういうのである。けれども、それも神様がやはり私に下さるものだとして頂かねばならん事はわかっているのだと、そこんところを間違えちゃならない。
 神様のお働きの中に、間違いようがあろうはずがないけれども、そんなら自分に都合のよいようにやら、自分の思うとる通りにはならないとするならです、そこんところを願いとしていかにゃならん。だからそこんところをですね、そんなら、そういう絶対の神様のお働きを絶対のものとして、まず知っておりわからして頂いて、それを頂かせて頂く事の為に、いうならば和賀心が必要になっくるのですよ。
 段々信心の稽古をさせて頂いておりますと、昔ならば信心のない時ならば、とてもこういう問題が起きてきたら、びっくりするだろうとか、こういう問題が起きてきたらいやなんだけれども、いやだったに違いないけれども、信心させて頂くようになったら、この位の問題なら、この位な難儀なら、合掌して頂かれる有難いと受けられる御の字をつけて頂かれるという事になる訳でしょう。
 だからそれが、段々大きいものになっていかなければならん。為にはやはり和賀心が必要、より有難い心、より和らいだ、より喜びに満ちた心というものを頂かなければならない。もう、このへんのところがですね、例えば今頃は十三日会に発表された方達のお話を頂いておりまして、本当に素晴らしいと思いました。一人一人のお話がもうそこまでわかっておられる。そこまで頂いておられるのですかと、一人一人にそれを有難い事ですねと言いたいような気が致しました。
 例えば原さんの発表でしたけれども、例えば子供達の事だって、はじめの間はああしなさい、こうしなさい、そげなこつじゃいかんばい、そして困ったところがあったら神様にそこを又お願いしていきよったけれどもです、段々信心をさせて頂いておるうちに、とても自分の知恵やら力やらで、どうする事も出来ない事がわかったと、もう神様にお願いするより他にないのですからとこう。
 どうぞ子供が頭がようなりますように、どうぞ子供達に良い嫁ごを下さい。娘はよいところに縁につかせて下さい。子供達が考え違いしとるごたるけん、どうぞと親が言うてもです、親の思いというものは、思い通りにならない事がわかった。
 そこでです、もう神様におすがりをするより他にはないという、この手一本にしぼられておられる訳です。そうして体験としてです、とてもとても親が教育出来る事じゃありません。一人一人の子供達の上に神様の働きを感じる時です、もう何一つとして、無駄のなかった事に恐れ入ってしまうという発表をなさっておられましたでしょう。神様が子供達一人一人の上に、だからこれは子供だけの事ではなりません。全ての事にそうです。だからもう神様にお願いしときゃよかというのじゃなくて、そんなら原さんの場合、二十年間、しかも一家でです、その事を祈り願い続けさせて頂くうちに、そこに答えとして出てきたものは、私の力で出来るものは何一つとしてないとう事、神様におすがりするより他にないとしてお願いし続けてこられたという事。 そのお願いの内容が、段々変わってきた、どうぞ自分の思うように、どうぞ、いうならば、今日の御理解でいうなら、毎日、毎日ほんぞらぬくい日が続くようにといったような願いであったけれども、それも間違いである事がわからしてもろうて、悟らせて頂こうと。もう信心の稽古を綿密にしとる者には勝たんと思いました。先日の発表を聞かせてもろうて、とてもとても、そんなら今日私に言うておる事をです、先生の生き方はもうこれなんですから、そんなら例えば今日の御理解から頂いて、結局、どういう事かというと、日のお照らしなさる日に吉い日凶い日はないと思えというこれがいうなら願目ですよ。
 日々起きてくる全ての事柄の中にです、よい事悪い事はない。みんながおかげであるという事。ところが私共生身を持っとりますから、そんなら原さんの例でいうならば、降った時にはしろしいから、どうぞ天気のお繰り合わせを下さいと願ってあったとこう言うのです。暑けりゃ暑うございます。どうぞ涼しい風を送って下さいと願ってきたとこういう事なんです。そうして、願いを進めて行くうちに願いの内容が段々変わらせて頂いて、これは降っても照っても、これを受けさせてもらう。為には和賀心が必要だと悟ったというのです。
 和賀心をもって頂くならばです、暑いなら暑い、寒いなら寒い、降るなら降る、照るなら照るで、その時点で有難く受けられる事を段々体験させて頂いたという事なんです。
 今日、私、御神前に出たらすぐ頂く事がね、『可哀相になあ』というお言葉を頂いた、お言葉で。何が可哀相になあだろうかと私は思うた。
 生まれつき器量のよい人悪い人見るとほんにあの人は、器量が悪いから気の毒なとまあ、可哀相だなあと。
 私はそういう事ではなくてね、いうならば、心の悪い人は気の毒だなあ、器量の悪いのが気の毒のように、心の悪い人、心を自由自在に有難い方へ、有難い方へ頂けない人、いうなら心の不具者。心がぎこちない。例えばお話を頂いて、ああそうかとわかっても全てがおかげであるとわかっても、それをおかげと頂けない人、可哀相だと 信心の道も、真の道を知らぬ人のあわれさ、本当に可哀相だなあという事です。  そこで信心の道を段々わからせて頂くようになったら、全てが有難い有難いで行く事が本当であり、同時に又、有難い有難いで受けていけれるところからです、おかげは限りなしに頂けれるんだという教祖はそこんところを、此方の道は有難い有難いで開けた道じゃから、有難いでは苦労させんとおっしゃるような、素晴らしい世界が展開してくる訳です。
 そこで、もう本当言うたら、全てが神愛なのだけれども、それを神愛と受けられない。けれどもそれを、如何にして有難く受けていけれるかという事にです、そんなら有難く頂いていくという事の為に、いよいよ本気で和賀心はという追求をしなければならないなあという事。
 心が和らぎ、心が賀びで満ち溢れておる。祝いめでたいという心の状態の時はです例えば少々の事があっても、おかげと言えれるんですよ、実際は、そうでしょうが。 ところが心が暗かったり、心がイライラしてる時は有難い事ですら、かえってそれが腹の立つ材料になるでしょうが。そこで、そんなら私共がそういうところをです、例えば、そういう時があっても、そこんところを黙って生神金光大神、生神金光大神とおすがりをしていく事を最近では、黙って治めていこうとこう言うのである。
 そういう時期があるのだけれども、そこを黙って、金光様、金光様とお唱えさせてて、おすがりさせて頂いておるとです、昨日の御理解でいうならばです、自分自身がもっともっと力を受けて、もっともっと魅力のある私になる以外にはないんだと、もっともっと、素晴らしい心の器量者にならなければならないんだという事になって参りますから、人じゃない、他じゃない、自分の心の中に帰ってくるわけなんです。
 又、今日は御心眼に頂くのがね、もう、広-い川を、もうどれだけの人じゃれわからん。もう、それこそ何千、何万の人がです、丁度蟻のように見える小さく。大きな川をねず-っと帯のように川を渡っておるところを頂いた。いわゆる浅瀬から浅瀬をよって渡っているという感じなんです。
 もう、それは何千とも何万ともわからん程しの人が、その川を渡っておる。ちょっと、川から向こうへ行きますと立派な橋がこうやってかかっておるというようなお知らせを頂きました。
 そして今日、教典を開かせて頂いたら六十五節を頂いとりますから、私はその事から、だから六十五節を今日は新たな解釈で頂いておるのですよ。
 ここでは日柄とか、方位とかといったようなところから、説きはじめてありますけれども、例えば日柄方位は見るに及ばんという事は、全てが有難い事なんだから、もう使い勝手のよいのが、吉い家相であると、自分に都合のよい日が吉い日だというふうに、教えてありますところを私は、日柄とか方位とかいう事だけではない、私共の前に起きてくるものでさしさわりのあるものは、決してあるはずがない。
 降る事だっで照る事だって、それはもうおかげだと。いうならお天とう様が照ってござる日で悪い日はないと。お天とう様の出ちゃないなんて日はないのじゃから、降ろうが吹こうが照ろうが。いわゆる天地の親神様のお働きを頂いてないという事は、一時、一刻だって絶え間がないのだから、その神様のお働きにです、無駄のある事はないという事。そこで教祖金光大神がです、世の中の難儀な氏子の取次助けの為に、本当の事を人間氏子に教えて、本当な道を踏ませて、本当なおかげを頂かせようとする働きが生まれたというのが金光教なのです。
 これは他の何宗何派ではね、こういう事は出来ない。だからその本当のおかげを、偶然と自然が一致点が出てる程しのおかげになってくるという、人間の上に。
 金光大神がです、どうぞ取次助けてやってくれというのは、いわゆる私共人間氏子と天地の親神様の中にです、大きな橋をかけて下さるようなものなのです。
 今まではです、それがなかった。だからやはり足をぬらさなければならなかったりという事、それこそ何千とも何万ともわからない程しの人が、やはり浅瀬、浅瀬と渡って行きよる。だから金光様の信心しよったっちゃ、やっぱり昔から言うてある事はせにゃと言うて、家相を見たり、そんならば日柄を見たりする事になるのです。
 だから渡って行ける。もうこれは少しお恵みが多すぎて、いうならおかげが多すぎその川が氾濫でもすると、もうどっこい渡られないという事になる。
 だからもう、世の中の沢山な人がね、こういう難儀な道をそれこそ何千とも何万ともという事になるでしょうねえ。そういう人が下の川を渡っておる。それを見るに見かねられて、天地の親神様がおられたんだけれども、それを取次助けてくれる程しの人がなかった。そこに金光大神が出現された。もう此方のような人間は見た事がないという程しに、実意丁寧の限りを尽くされて、天地金乃神と同根というところまで、天地の親神様の御信用を受けられて、これからは金光大神の御取次によって、もうこの世の中によいも悪いもないと思えというような素晴らしい道を、お敷き下さった。 それが川上の方にある橋なんです。御取次を頂いて、渡らして頂くのは、人間の世界から神様の世界に渡っていくという事なんだ。いうならば、いわゆるわが心が神に向かって一歩一歩進んでいくという事なんだ。
 その御取次を頂いての、お取次の橋を渡らして頂くところからです、どんなに川が氾濫しようが、いわゆるその橋を渡らして頂けば楽というて、おかげの頂けれる世界が開けてくる訳でございます。
 だからそこんところを、素直にわからして貰う事の為にです、私共信心の焦点というものがです、私の上に起きてくる全ての事柄が神様の御働き、それが苦しい事であるならば、神様が私に求めたまうところの修行であると頂かにゃいかん。
 けれども苦しいから、お取次を頂いてお願いをさせて貰うという生き方も又そこにある訳です。さっき原さんの事を申しましたが、どうぞ明日はお天気になるますようにというようなところから、願ってもいいんだという事。
 寒うございますというような願いでもいいのです。そこにそんなら寒いなら寒くないような道を教えて下さるのがお取次。昨日の御理解じゃないけれども、御理解を頂く事によってです、そうだったと気づかせて貰う。それは今んごと寒かなら、こごえ死ぬかもしれん。それではいけない。そんならひとつ本気でこういう事をしてみれと言うて、例えば教えられる。神様のおっしゃる通りの事を一生懸命しよったら、ほんな汗がぶるぶる出てきた。
 はあ、これは寒いのじゃない,自分の心の中からこのような暖かいものか頂けれる道を教えて下さる訳なんです、いうならば。
 自分の心にどうにも出来なかった事をです、御理解を頂く事によって御教えを頂く事にようって、はあ-そうだったと心が又スキッとするという事なんです。
 今まではたとえば罪悪感でもう自分のごたるとは助かりきらんと思いよったのが、御理解を頂く事によっていっぺんにこれがスキッとそれこそ、ついたものが落ちたよにおかげが頂けれるという事なんです。
 そこにお取次を頂く、いうならば御教えを頂いてのおかげの展開というのがねある訳です。そういうおかげを頂かせて頂きながら、成程、神様のなさる事の上に無駄がない。全てが有難い事だという事を、いよいよわからせて貰うて、有難い有難いの信心が出来るところからです、有難い有難いにはもう苦労はさせんと、おっしゃる程しのおかげが頂けれるのも、金光教ならではであります。
 金光様の信心しょってもね、どれ程こういう素晴らしい高度のお取次の橋がかかっておっても、やっぱり下の方を渡っておる人がどの位あるかわからんのです。
 そして川が氾濫すると、もう渡られないという難儀をしている人がどの位あるかわからんのです。もっともっと、金光大神御出現の訳をよくよくわからせて頂いて、お取次を願い、お取次を頂かせて貰って、お取次を頂いたら、どういう事であっても安心が出来るという、昨日の御理解から言うと、身凌ぎが出来る程しのです、おかげを頂きながら、神様の世界へ神様の世界へと近づかせて頂く。わが心が神へ神へと向かうて頂かして貰わなければならん。
 それで又、結論致しますと、絶対の事をこれが本当だという事をひとつわからなきゃいけないという事。そんなら今日の六十五節のところは、本当な事を淡々として教祖様は教えておられる。
 もう天地宇宙の事ですよね、これは。日柄とか方位とかいうなら、人間生活の上に表れてくるところの難儀、いうなら家相見るといったような在り方といったものがねそういうものはもう見るに及ばん。そういう煩わしい事はないんだとぞと、はっきり教えておられる。それをあまりにも、簡単に教えておられますからね、やっぱり金光様の信心しよっても、そういう窮屈な生き方をしておる。そして、おかげがいよいよ窮屈になってくるというような事ではつまらん話ですから、本当な事を本当な事としてわからして貰うて、それでも私共生身を持っておりますから、やはり痛いとか辛いとを感じます。そこんところをお取次頂いて、お願いしていくうちに自分の心の上に身凌ぎが出来るように、いうなら和らぎ賀ぶ心をもってそれが、受けられるようなおかげを頂きながら、信心の稽古を進めていく。そして本当な道、いわゆる信心のない人、真の道を知らぬ人との差というものが、天地ほど開けてくる。
 今頃十三日会の時、野口さんがお話になってましたですねえ。お姉さんという方が熊本におられる。もうそれは人間的には野口さんよりも、よい素晴らしい根性を持っておられる。とってもいい方なんです。器量もとても素晴らしい方なんですけれどもね、ところが子供さんがない。それで自分に不思議な病気をもっておられたりしましてね、それでもう、そのみ-んなが心配の種になるような考え方ばあっかりしておられるという事。
 同じ兄弟で、信心のある者と無い者の違いがもう、いよいよ天と地ほどに開きが出来てきた事を感じますと、これからはどうでも、姉にこの有難い道を教えてです、もう、私達ならばお礼をいわなければなられない事を不平に言う、不足に思うて、ああいうよい人間、ああいう心のよい人が、ああいう難儀をされてはというお話をなさっておられました。
 信心のある者と無い者はそんな開きが出来てくる。只、そんなら信心しよりさえすればよいというのじゃなくて、今日のようなところをふんまえての信心でなからなければならない。
 原さんの場合だって、野口さんの場合だって、今日私が申しましたところを、ふんまえての信心が出来ていきよんなさるところから、ああいう心の状態というのが開けてくるのである。それを育ててさえいけば、いよいよいうならば、本当のおかげの世界がもっともっと、広がってくる事は間違いない。信心のある者と無い者は、親のある子と無い子程のとがいを感じる。
 そこでそういう人達に、自分がおかげを受けて、人にも伝えていかせて貰う。そこに真の道を踏んでいくのぞというような、真の道がいよいよはっきりしてくる訳でございますからね。根本的なところを、信心のいうならば、大事な焦点という事を今日は聞いて頂いた訳ですね。
 焦点をそこに置いて、それが本当だといううことがわからせて頂いて、それを本当として、ならばそれを有難く受けさせて頂く心を、そんなら和賀心で受けていかなければならない。いよいよ和賀心を高めていかなければならないとうい事を申しましたですね。どうぞ。